雨は良いもの? 悪いもの?

6月のある日曜日のこと。
その日はいつものごとく法要が連続しており、たくさんの方々がお参りに来られていました。
ところが生憎、朝からバケツの水をひっくり返したように雨が土砂降っており、あまりの雨量に排水が追いつかず、山門周辺が水浸しの状態になっていたのです。
足もとを容赦なく襲う雨水の流れを、少しでも遠くへ導こうとスコップを持って奮闘する私の側を通り過ぎた高齢の男性が、吐き捨てるように叫びました。

 

「何が改善だ!こんな工事は失敗だ、排水が全くなっとらん!」と。

 

しばらくすると、今度はお参りを終えて本堂から出てきた女性が、私の側を通り過ぎようとして作業者が私であることに気づき、ハッとしたようにおっしゃいました。

 

「誰かと思ったら、住職さんですか!すごい雨ですけれど梅雨ですから仕方ないですね。降らなければ降らないでまた困りますしね。それにしてもこんな雨の中をありがとうございます。どうぞ風邪ひかないで下さいね」と。

 

さらに作業をしながら通り過ぎる皆さんの様子を観察していると、興味深いことに気づきました。
大半の大人が苦い顔をして大雨の中を歩くのに対して、大半の子ども達は、むしろ楽しげなのです。
「雨で服が濡れた」という状況をどのように捉えるかはその人の心次第です。
「服が濡れて不快」という感情をどのように処理するかはその人の心次第です。
同じ雨でも、旅行の予定日に雨マークがついていたら気分が滅入りますが、田んぼに水が必要だと思った翌日に雨マークがついていたら気分は高揚します。

 

02 「雨が降る」という事実は変わりませんが、その雨をどう捉えるかによって、その解釈が全く変わってしまうのです。
このように、私たちは日々起きる出来ごとに、その都度自分なりの解釈を与えて、自分勝手に楽しくなったり、不機嫌になったりしています。
つまり私たちが、よい気分になったり、悪い気分になったりするのは、誰かのせい、何かのせいではなく、自分のせいなのです。
自分がその出来ごとに対して、どのような解釈をするかによって、得られる感情を選択しているのです。

 

このことは、誰かに望ましくない言葉を投げかけられた時でも同じです。
お釈迦様の教えを記した『鋸喩経』というお経に、『「すべての言葉には、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗いことば、有益なことばと有害なことば、慈(いつく)しみのあることばと憎しみのあることば、この5対(つい)がある。
この5対のいずれによって話しかけられても、「私の心は変わらない。粗いことばはわたしの口から漏れない。同情と哀れみによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起さないように」と努めなければならない。』という教えがあります。

 

「粗いことばを投げかけられた」という事実に対して、「なんだこんちくしょう。腹が立つな!」と怒ることも出来ますし、「可哀想に、何か嫌なことでもあったのかな?でもあのような口調で人に接していたら、いずれ誰にも相手にされなくなってしまうな」と哀れむことも出来ます。
怒った人、憎しみをもった人の粗いことばに振り回されて、自分の感情を乱し、心を傷つけることは、全くもって時間とエネルギーのムダ遣いです。
目の前の出来ごとに対してどのような解釈を与えるのか。それによってどのような感情が得られるのかが決まります。
つまり自分の感情は自分が選択しているのです。

「自分の心は自分が決める」

この道理が分かると、せちがらい世の中も若干過ごしやすくなるものです。