福厳寺の開山・開基

禅宗の名僧「 盛禅洞奭大和尚」が、福厳寺のご開山です

 

P1010679福厳寺の本堂奥には、開山堂があります。開山堂とは、御開山(初代住職)をはじめとする、歴代の住職の位牌が安置してある御堂のことです。この開山堂に、福厳寺御開山「盛禅洞奭(せいぜんとうせき)大和尚さま」(1434~1518年)の位牌と像が安置してあります。

盛禅和尚さまは、神仏に対する信仰の深い両親の元にお生まれになりました。盛禅さまが12歳のとき、岡山県の高僧、霊岳洞源(れいがくとうげん)和尚さまが、静岡県森町の大洞院に住職として赴任される旅の途中に、盛禅さまの家に一夜を憩うことになりました。その際、霊岳和尚さまは、まだ子どもだった盛禅さまの骨相が奇秀であることに気づき、盛禅さまを弟子にすることにしたのです。盛禅さまは、霊岳和尚さまのもとで得度しましたが、霊岳和尚さまが亡くなった後は、宝積寺にいる兄弟子、月泉性印(げっせんしょういん)和尚さまの下で修行を積みます。

月泉和尚さま亡き後、盛禅さまは、宝積寺の住持としてその力量を発揮されます。盛禅さまの名声を聞いて、当時、この大草一帯を治めていた西尾城主、西尾道永(にしおみちなが)が弟子入りをし、自身の城の南側にあった広大な土地を寄進して建てられたのが福厳寺の始まりです。

盛禅さまは、事実上の開山でありながら、自分に仏縁と悟りをもたらしたお師匠さまをたて、福厳寺の御開山を最初の師である霊岳和尚さまと定め、兄弟子である月泉和尚さまを二祖とし、自らは「三代目」と名乗ったため、人々から「三代さま」と呼ばれ、敬愛されました。


福厳寺は、大草城主「西尾道永」によって
寄進された広大な土地に建っています

03

福厳寺の開基(寺院を創立した人)は、大草西尾城主、西尾式部道永という武将です。

道永は、三河の西尾城主でしたが、三河の乱に敗れ、城を追われて尾張に落ちのび、岩倉城主、織田信安に身を寄せました。

その後、岩倉殿の恩情により、春日井郡の反郡を与えてもらい、大草村に居城します(西尾氏は付近一帯を領有していましたが、道永死後、ほどなく廃城となっています)。

大草城は、西尾式部道永が築城したことから、「西尾城」とも呼ばれています。

大草村で盛禅和尚さまに出会った道永は、盛禅和尚さまを参禅の師と仰ぎ、城の南側にあった広大な土地を寄進します。

この土地に建てられたのが福厳寺です。

西尾道永は、福厳寺の創建にあたって、「大久佐八幡宮の神域をけがしてはいけない」と考え、当時、大草の東上の地に建っていた大久佐八幡宮の社殿を「古宮」という地にうつしたと記述している書類が残されています。

盛禅和尚さまは、東海屈指の名僧として名を馳せ、西尾道永が深く帰依をするほど、道徳的に優れた人物でした。

道永は、自らも出家僧形となって、盛禅和尚の下で熱心に参禅したと言われています。

その後、岩倉対織田の家督争いからこの地を離れ、岐阜の斎藤道山を頼り、現在の岐阜県恵那にある藤村に所領を得て築城しました。

道永の死については、永正14年(1517年)「濃洲の戦いで命を落としたとされる説」と、「永正11年から永正14年までの3年間、病床に伏した後に死んだ」とされる説があります。

PAGE TOP