歴史:ご開山 盛禅洞奭(せいぜんとうせき)大和尚を偲ぶ

大叢山福厳寺は今から約540年前の、文明八年(1476年)に創建されました。時代は平安時代末期、ちょうど応仁の乱が終息した頃でした。当時、大草村一帯を治めていた西尾城城主、西尾道永が、禅の師匠と仰ぎ教えを受けていた、盛禅洞奭大和尚(盛禅さま)を招いて創建されたお寺です。

三代目の所以

盛禅さまは、福厳寺の事実上の開山です。けれども、ご自身の出家得度の師匠であった、霊岳洞源禅師をたてて福厳寺の開山とし、さらに、兄弟子であり、尾張野口の宝積寺開山であった、月泉性印禅師を二代目とし、自らはへりくだって、三代目におきました。そのため人々は、盛禅さまのことを「三代さま」と呼んでその遺徳をあがめました。

生い立ち

盛禅さまは、永享6年(1434年)、静岡県周智群にお生まれになりました。ご両親が、なかなか子宝に恵まれなかったため、信仰のあった秋葉山へ100日間、毎日夜中の12時にお参りして「願掛け」を行い、ようやく授かった一人息子が、盛禅さまでした。

修行の旅

盛禅さまは、幼少期からその才覚をあらわし、12歳の時、霊岳洞源禅師について出家。その後は京都の建仁寺や比叡山を遊行して厳しい修行を続けられました。しかし、ある夜、ひとり禅堂にこもって坐禅している最中に神人があらわれて啓示を受けたと言われています。その啓示を下さった神人こそ、秋葉三尺坊大権現でした。
秋葉三尺坊大権現の啓示を受けた盛禅さまは、京都から故郷の遠州(今の静岡県)に戻ることを決意します。そして、遠州春野の秋葉山に拝登し、次いで遠州森町の大洞院に赴いて、出家の師匠である、霊岳洞源禅師のもとで、あらためて修行を積んだのです。 ※大草の西側に大洞と呼ばれる地区がありますが、大洞は盛禅さまのお師匠さまが住持した寺である、遠州森町の大洞院の名前に由来します。

悟り

霊岳禅師亡き後、盛禅さまは、兄弟子であった月泉性印和尚を訪ねて、尾張(愛知県)に赴き、野口村の宝積寺の門を叩きます。そしてついに、月泉和尚のもとで悟りを得ます。文正元年二月十日(1466年)、盛禅さまが32歳の時でした。
その後、盛禅さまは月泉和尚の後を継いで、宝積寺の住持となります。盛禅さまの名は、村々を超えて広まり、当時大草村西尾城の城主であった西尾道永も、公務の間をぬって盛禅さまのもとを訪れては、聞法をしていました。
けれども、盛禅さまを慕って集まる大勢の人々を受け入れるには、宝積寺がせまいことを憂えて、西尾城の南西に広大な土地を寄進し、造営されたのが福厳寺でした。

福厳寺 晋山開堂

福厳寺創建の大工事は、盛禅さまの弟子であった租庵英彭和尚が陣頭指揮し、約三年を要しました。1476年に完成した客殿・本堂・山門・庫院をはじめとする七堂伽藍の威風堂々とした様は、当時の人々を大変に驚かしめたと言います。
その後、一大禅道場として門を開いた福厳寺には、盛禅さまを慕って弟子達が集まり、多くの名僧が排出されました。そして、東海地方に130もの末寺を有する名刹として今日に至ります。
また、福厳寺の創建工事の最中、一人の旅の怪僧があらわれ、難航した寺の建設を助けたと言われていますが、その人こそが秋葉三尺坊大権現だったという伝説も残っています。盛禅さまが京都の禅堂で坐禅中、啓示を下さった神人もまた、秋葉三尺坊大権現でした。

守護神

福厳寺の境内には、本堂向かって左手山頂に、秋葉総本殿が建てられていますが、その理由は、ご両親が秋葉山に願掛けをしたことに始まり、盛禅さまを、生涯にわたってお守り下さった秋葉の神、秋葉三尺坊大権現を、福厳寺の守護神としてお祀するためだったのです。

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